風立ちぬ(宮崎駿、2013)

北米でも上映が開始されたので、早速鑑賞してきた。もちろん(とても残念だけど)、吹き替え。庵野氏の声はジョゼフ・ゴードン=レヴィットの柔らかい、でも芯のある声に変わっている。なるべく一定の温度を保った声。私は結構好きです。けど、優しすぎる気もした。

オープニングの夢のシーンから最後まで、途中ぼんやりとするところはあったが(中盤あたり)、どうしても胸がギリギリとなって、何度か泣いた。二郎が見ている世界、完全に主観的な世界を、カプローニを皮切りに徐々に他人と共有していく、と私は感じた。
夢と現実の境はかなり曖昧だ。空を見上げれば飛行機がとんでいて、だがそれは二郎だけに見えているもので、他の人には見えていない。しかし共通のゴールを持つ仲間同士とは夢を共有するシーンが何度か挿入されている。菜穂子とはそれは共有できない。何故かと言うと、これは、二郎というひとりの「人間」の物語というより、ひとりの「職人」の物語だからだと思う。
だからまあ、ミソジニーとか関係無しに、やっぱりこれは男の物語なんだろうな、と感じた。男同士の職人の話。

仕事場のシーンや、デザインを描いているシーンなど、宮崎駿を始めとする映画製作者の人たちに見えた。美しいもの(自分が美しいと思う、固執するもの)をモラルを無視し(無視、というか、見えてない状態)作り上げることを正当化していると言われれば、確かにそうだろう。宮崎駿が二郎に自己投影しているのも否定はしない(し、実際にそうだと思う)。だが彼ら「職人」は、やはり、美しいものを作り上げなければならないのだ。『意志の勝利』を作り上げてしまったリューフェンシュタールのように。

宮崎駿の「引退宣言」によって、メタシネマ的要素やイデオロギー的要素などの印象は強まったように思える。引退宣言のことを知らずに見ておきたかったな、とちょっと感じる。それらを引いても、美しい映画だった。もしこれで本当に引退してしまうのならば、あまりにも美しい引き際だ。素晴らしい一本を残して(しかも、結構、一方的に残して)去っていくなんて!

と、鑑賞直後の興奮状態のまままたブログを付けている。
他の人の批評(あまり良いものは見つかってないけど)を読んで、私はやっぱり中々奥の奥まで読み込めないなあとちょっとがっかりする。

菜穂子のことはちっとも触れていない。自分の見方で『風立ちぬ』を見ると、書き辛いのだ。書き辛い時点で私の見方はきっと間違っているのだろうけど。
この職人に関わる菜穂子とは一体なんだろうか?端的に、平べったく言えば、「ミューズ」なんだろう。彼女がいなかったら戦闘機が出来上がらなかったわけではないが、だが彼女がいたから戦闘機は出来上がった。実体的存在ではなく、認識的存在。職人である二郎自身は戦闘機の完成に向けて犠牲とするものがない。その犠牲の役割を菜穂子が背負っている。そういう考え。
実際、二郎の薄情さはずっと描かれてきているのだ。今更、恋人を犠牲にしようと文句は出ない。ただなぜ菜穂子なのかが「美しいから」というのはやはり説明が足りない。菜穂子でなければいけない何か、を考えると、彼女の将来が「約束された死」だからとしか思えない。二郎的に都合がいい。彼は制作する時のみミューズを必要とし、彼自身には必要がないから。

それと、映像のことについてもメモしておきたい。
二郎が設計図を広げ、それについて説明しているときなど、実際に彼の想像している部品が合わさり稼働する映像が設計図に浮かび上げる。あれも二郎だけが見ているイメージの一種なんだろうか?他のシーンでも似たものを感じたときがあった。ウイングのショットがあり、そして幌が徐々に透明化し、内部の部品が見える。それも二郎だけに見えているものなのか、それとも私たち観客が与えられているものなのか、どちらなのだろうか?前者ならば、これは現実と夢の境が曖昧で行ったり来たりを繰り返す映画なので、説明はつく。一見しただけではわかりにくいが、物語は常に二郎の主観を軸としている(沸き上がるイメージなど)。後者ならば、宮崎駿は随分と丸くなったなあという印象になる(笑)あの説明っぽいシーンがどうしても気になってしまった。今までにあんな説明らしい説明のシーンはあったかな?と。ならば完全に二郎の主観で物語が進んでいると考えたほうが良いかもしれない。

となると、私が一番最初に書いた「二郎が見ている世界、完全に主観的な世界を、カプローニを皮切りに徐々に他人と共有していく、と私は感じた」は全くデタラメになるな。
本庄と一緒に見ているイメージのシーン、また職場の人たちと見ているイメージのシーンは、やはり、二郎だけのイメージなのだろうか?だがカプローニとは明らかに「共有」している。カプローニとの共通点は「飛行機」で、本庄、職場の人間との共通点もそれだ。だからつまり、他人といってもかなり限定された他人との共有、となる。
まあ、どう考えても菜穂子は共有できないんだけど。

あと、時間の経過。
時間の経過の境も、夢と現実の境と似たように、かなり曖昧だ。あれ?と思うと成長している。フェーズがくっきりと変わるのではなく、実際の時間の流れのように、線状で進んでいく。変化の境はどこかなと考えると、電車かな?と思う。
でも所々忘れているので何とも言えない。毎回電車に乗って時間が進んでいるわけでもないし。

まだまだ考えたいところも考えたり無いところもあるけれど、でもこの辺で。
本当に宮崎駿、見納めなのかなあ。そう考えるとさらに悲しくて仕方ないんだけど……。

もう一度ぐらい見に行きたいです。