映画理論の中へ

今回取っている映画理論のクラスが一番厄介だ。思った通りである。
毎週別の方向から書かれた映画論を一本づつ、決して長くはない量なのだけど(しかし短くもなく)、読むのにも時間がかかり、さらに理解するのに倍ぐらいかかっている。
課題と言えば特になく、読んだものを一ページの要約にして提出するだけなのだが、それもまた、かなりつっかえている気がする。「自分の言葉で説明」は以前より出来るようになったものの、「自分の言葉で他人の思考を説明」はまだまだ難しい。

それでも、楽しいな、と思う。
こんなに多方面から映画を皆見ているなんて。本当に、色々考えてくれるよ、なんて思いながら読んでいる。
今まで遠い存在であった言葉たちが自分の中に取り込まれ、一部になり、自由に扱えるようになることも、結構快感を味わえる(ちょっと、これはジレッタントみたいな感じがするけど)。

エイゼンシュタインモンタージュ理論(特に弁証論的モンタージュの部分)と言う映画理論史的に言えば超古典から始まり、その次の週はそれもまた古典と言えそうな、アンドレ・バザンの『映画とは何か』の中から「写真映像の存在論」「映画言語の進化」を読んだ。モンタージュの週には『ストライキ』を見て、バザンの理論に対しては『ウンベルト・D』が題材。
そして先週はクリスチャン・メッツの『想像的シニフィアン』から抜粋して「同一化、鏡」「知覚しようとする熱意」「否認、フェティッシュ」。見たものは勿論ヒッチコック『裏窓』。
今週は、ジェニファー・バーカーと言う人が現象学を用いて書いた"The Tactile Eye"からイントロのみ。それに合わせて観たものは『ヒロシマ、わが愛』(または『二十四時間の情事』)。
来週はドゥルーズのシネマ1と2から抜粋して読みつつ、アントニオーニの『赤い砂漠』。

「理論」って結局、何なんだろう。
数字を扱う理論でもない文系の理論はどうしても「経験」が介入してくるし、「経験」と一言で言っても決して一般化できるものなんかではなくて。映画より先に理論がある場合は実証例があるので納得できるのだけど(エイゼンシュタインとかソビエトモンタージュの人たちは特に)、バザンもメッツも、存在している映画を主観的に選び自身の理論展開に使用しているから、これは果たして客観性を含んである理論なのか、それともただの正当化なのか?と考えてしまう。映画理論は理論というよりひとつの考え方、映画と言う装置(身体でもスクリーンでも対象物でも、どうぞお好きなように読んでください)に対しての考え方なのだろう。「映画理論」じゃなくて「映画思想」って言ったほうが、間違いない気がする。

私は「理論」が完璧に客観性を持ったものだと思い込み過ぎているのかもしれない。
理論はもっと柔らかい、柔軟性のあるものなんだろうか?(それでもいいの?)

ひとつの考え方だから、そうかこういう風に考えられるんだな、この映画とこの考え方は凄く合うんだな、なるほどなるほどフンフンなんてしながら授業を受けています。
ひとつの考え方だから、もちろん私は否定しても反対しても良いんだろうけど、それでもどの思考も説得力があって、凄いな、なんて。私は今までどうやって映画を見て来たのか。いや、映画をみてそれで完結していた。今はそこからもう一歩踏み出したい感じ。

今日のまとめ。
理論は立証されることと理論が正しいことは同一ではない。
例えばモンタージュ理論を全部の映画の編集に使えないように、理論と映画の相性も考えなければならない。
バザン的リアリズムやエイゼンシュタイン的リアリズム、メッツ的リアリズムなど、同一の単語だが論述者によって内容が変わってくるため、「リアリズム」を考えているとき、誰のリアリズムに一番近いのかを記すべき。

今日の疑問。
材料(映画)が存在し、それをまとめるために理論が存在するのか、理論を作り上げたいから材料を選ぶのか、どっちなんでしょう。
他分野の思想を借用していることが多い映画理論。映画と言う装置はあらゆるものを包括して出来上がっている、それこそ組織化された器官のようなものなので、当たり前っちゃ当たり前だけど。そう考えると、映画のためだけにある理論ってエイゼンシュタインモンタージュぐらい?(でもモンタージュ理論って実際は全体としての映画の理論ではなく、製作上で使用できるものなのではないのか?)(モンタージュ理論から映画は解けないような…)(そんなこともないけど、対象が狭すぎてやっぱり難しそう)

等と考えつつ、さあドゥルーズでも読もうか!