Shall We ダンス?(周防正行、1996)

ペーパーに書くために、ここ数日『Shall We ダンス?』を何遍も見返している。
これ、本当に良い映画。小学生の頃に金曜ロードショーで見たことはあったけど、ここまで良い出来だったとは、当時はわかるまい(当たり前だ)。

すっかり、現実を忘れさせてくれる。ダンスホールに連れて行ってくれるわけではない。本場イギリスのブラックプールを体感させてくれるわけでもない。でも、映画の中に完全に入り込むことが出来る。夢の中にいるみたいなふわふわした2時間。

映画の中での社交ダンスに対してのイメージは過剰なくらいだ。まるで犯罪(不倫とかそういった下心を持った類いの)のように扱い、「外国」と「日本」を完全に分けている。これは日本の持つ文化じゃない、と。恥を重要視する日本では、受け入れられるようなものではない。だからみんな隠れてダンスホールへと、でも足しげく通ってしまう。現実から遠ざかることと、日本の抑圧された文化の中では表現できない・体感出来ないことを求めて。
そして「外国」への強烈な憧れも描かれている。理想の男性像は「自分を守ってくれて、一歩先を進む」人だ。草刈民代演じる舞も、日本の場末のダンスホールでは踊れない、自分が踊れるのはイギリスのブラックプールだけだと言う。ここでも外国と日本はまるで別もののようだ。その間には深い溝があって、越えられるものではないから、激しい憧れを抱く。

日本へと入ってきた西洋文化は、きっとオリジナルのものとは別のものになっているのかもしれない。かといって日本文化へと変貌もしない。そのちょうど間、リミナルな場所にあるそれは、「外国」と「日本」という越えられない文化的な差を埋める役割を果たしているようにも思える。
と同時に、溝自身でもあるわけだ。

1996年ってどういう時代だったんだろう。バブル崩壊して、一旦落ち着いてきたんだろうか。
この当時の日本の中で「西洋」の立ち位置が知りたい。ジュリアナ・ディスコ系は多分もう衰退していたろうなあ。
1995年は他の年と比べて印象深い事件が多いのは覚えているけれど(地震やオウムなど)(あと大江健三郎ノーベル文学賞か)。でもこの映画の公開は96年1月だし、撮影期間はだいたい95年内だっただろう。

そういう暗い、日本人の価値観を変える出来事が多発した中で、こういった映画が出来上がっている。それもステレオタイプな日本人サラリーマンを主役とした、シンデレラストーリー的な物語の。

中年男性のがプラトニックな恋をして、ダンスという現実世界ではないような活動を経て、日本文化である恥を捨てずに映画は終わる。そして最後の日本でのダンスホールのカット後、まるでカメラが続いているかのように、本場イギリスのブラックプールへと移動する。
映画内における日本文化の温存と、外国文化の立ち位置のテンションなど、興味深いところが沢山ある。

何より、最後のシーンが良すぎるのだ!
舞が笑顔で"Shall we dance?"と聞き、杉山が少し笑顔になり、それに応える。その後音楽がかかるのだけど、他の雑音は全て排除されている(足音ですら)。青木(竹中直人)と高橋(渡辺えり子)がうなずき合うところで一瞬こえは入るけれど、それ以降はやっぱり挿入音楽だけ。もう現実じゃない。スポットライトも、優雅なクレーンショットも、本当に夢見たい。
その前の舞の視点(パートナーを選ぶシーン)もまた映画的な演出で良い。スポットライトがまったく一貫していない。始めに彼女にライトがかかり、そして周りをぐるりと見渡す。その時に別のライトが彼女の視線の役割を担っているのだけれど、杉山が登場し、彼にライトがかかる(つまり、舞の視線)。その後一度舞のクロースアップにもどり、次にまた杉山のミドルショットに戻るのだが、その時、彼にかかっていたはずのライトは消えている。つまりこの数ショットは完全に舞自身と同調していて、それは映画にしか出来ないことだ。
今気付いたけど、この流れは、非常にシンデレラっぽい。舞がシンデレラを探す王子様、杉山が遅れてきたシンデレラ。最終的に王子様のスポットライトに、シンデレラが入り込むのだ。


今なら、1990年代の日本映画の傑作ってこれじゃないの、と思えるくらい。
楽しい映画です。

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ちょっと音ずれしてる。

風立ちぬ(宮崎駿、2013)

北米でも上映が開始されたので、早速鑑賞してきた。もちろん(とても残念だけど)、吹き替え。庵野氏の声はジョゼフ・ゴードン=レヴィットの柔らかい、でも芯のある声に変わっている。なるべく一定の温度を保った声。私は結構好きです。けど、優しすぎる気もした。

オープニングの夢のシーンから最後まで、途中ぼんやりとするところはあったが(中盤あたり)、どうしても胸がギリギリとなって、何度か泣いた。二郎が見ている世界、完全に主観的な世界を、カプローニを皮切りに徐々に他人と共有していく、と私は感じた。
夢と現実の境はかなり曖昧だ。空を見上げれば飛行機がとんでいて、だがそれは二郎だけに見えているもので、他の人には見えていない。しかし共通のゴールを持つ仲間同士とは夢を共有するシーンが何度か挿入されている。菜穂子とはそれは共有できない。何故かと言うと、これは、二郎というひとりの「人間」の物語というより、ひとりの「職人」の物語だからだと思う。
だからまあ、ミソジニーとか関係無しに、やっぱりこれは男の物語なんだろうな、と感じた。男同士の職人の話。

仕事場のシーンや、デザインを描いているシーンなど、宮崎駿を始めとする映画製作者の人たちに見えた。美しいもの(自分が美しいと思う、固執するもの)をモラルを無視し(無視、というか、見えてない状態)作り上げることを正当化していると言われれば、確かにそうだろう。宮崎駿が二郎に自己投影しているのも否定はしない(し、実際にそうだと思う)。だが彼ら「職人」は、やはり、美しいものを作り上げなければならないのだ。『意志の勝利』を作り上げてしまったリューフェンシュタールのように。

宮崎駿の「引退宣言」によって、メタシネマ的要素やイデオロギー的要素などの印象は強まったように思える。引退宣言のことを知らずに見ておきたかったな、とちょっと感じる。それらを引いても、美しい映画だった。もしこれで本当に引退してしまうのならば、あまりにも美しい引き際だ。素晴らしい一本を残して(しかも、結構、一方的に残して)去っていくなんて!

と、鑑賞直後の興奮状態のまままたブログを付けている。
他の人の批評(あまり良いものは見つかってないけど)を読んで、私はやっぱり中々奥の奥まで読み込めないなあとちょっとがっかりする。

菜穂子のことはちっとも触れていない。自分の見方で『風立ちぬ』を見ると、書き辛いのだ。書き辛い時点で私の見方はきっと間違っているのだろうけど。
この職人に関わる菜穂子とは一体なんだろうか?端的に、平べったく言えば、「ミューズ」なんだろう。彼女がいなかったら戦闘機が出来上がらなかったわけではないが、だが彼女がいたから戦闘機は出来上がった。実体的存在ではなく、認識的存在。職人である二郎自身は戦闘機の完成に向けて犠牲とするものがない。その犠牲の役割を菜穂子が背負っている。そういう考え。
実際、二郎の薄情さはずっと描かれてきているのだ。今更、恋人を犠牲にしようと文句は出ない。ただなぜ菜穂子なのかが「美しいから」というのはやはり説明が足りない。菜穂子でなければいけない何か、を考えると、彼女の将来が「約束された死」だからとしか思えない。二郎的に都合がいい。彼は制作する時のみミューズを必要とし、彼自身には必要がないから。

それと、映像のことについてもメモしておきたい。
二郎が設計図を広げ、それについて説明しているときなど、実際に彼の想像している部品が合わさり稼働する映像が設計図に浮かび上げる。あれも二郎だけが見ているイメージの一種なんだろうか?他のシーンでも似たものを感じたときがあった。ウイングのショットがあり、そして幌が徐々に透明化し、内部の部品が見える。それも二郎だけに見えているものなのか、それとも私たち観客が与えられているものなのか、どちらなのだろうか?前者ならば、これは現実と夢の境が曖昧で行ったり来たりを繰り返す映画なので、説明はつく。一見しただけではわかりにくいが、物語は常に二郎の主観を軸としている(沸き上がるイメージなど)。後者ならば、宮崎駿は随分と丸くなったなあという印象になる(笑)あの説明っぽいシーンがどうしても気になってしまった。今までにあんな説明らしい説明のシーンはあったかな?と。ならば完全に二郎の主観で物語が進んでいると考えたほうが良いかもしれない。

となると、私が一番最初に書いた「二郎が見ている世界、完全に主観的な世界を、カプローニを皮切りに徐々に他人と共有していく、と私は感じた」は全くデタラメになるな。
本庄と一緒に見ているイメージのシーン、また職場の人たちと見ているイメージのシーンは、やはり、二郎だけのイメージなのだろうか?だがカプローニとは明らかに「共有」している。カプローニとの共通点は「飛行機」で、本庄、職場の人間との共通点もそれだ。だからつまり、他人といってもかなり限定された他人との共有、となる。
まあ、どう考えても菜穂子は共有できないんだけど。

あと、時間の経過。
時間の経過の境も、夢と現実の境と似たように、かなり曖昧だ。あれ?と思うと成長している。フェーズがくっきりと変わるのではなく、実際の時間の流れのように、線状で進んでいく。変化の境はどこかなと考えると、電車かな?と思う。
でも所々忘れているので何とも言えない。毎回電車に乗って時間が進んでいるわけでもないし。

まだまだ考えたいところも考えたり無いところもあるけれど、でもこの辺で。
本当に宮崎駿、見納めなのかなあ。そう考えるとさらに悲しくて仕方ないんだけど……。

もう一度ぐらい見に行きたいです。

大いなる幻影(ジャン・ルノワール、1937)

あんまり寝たい気分じゃないなと思って、ずっと借りっぱなしだったルノワールの『大いなる幻影』を見た。で、見終わって、今、10分経ったところ。いや、もう20分経った。
悲しいとか涙が出るとかそういうレベルではなくて、なんだろう。本当にどう表したらいいのか全然わからない。とりあえず映画が終わって、椅子から崩れ落ちて、どうすればいいのかどうすればいいのかと天井を見上げた。そのくらいどう言えば良いのかわからない。動作でこの行き場の無い気持ちを表すしか知らない。術が無い。それしか出来なくて、つらい。

ルノワールが描いた究極のリアリズムは、最早リアリズムなんかじゃない。それすら超越して、別のもの、例えば幻影とかファンタジーとかシュールレアリスムとか、になっている気がする。感情や別の知性を持ったリアリティ。それがおよそ2時間、正しくは114分間、私に向かってくる。

上手く言えない、全く上手く言えない!

どうしてこんな「言葉にならない」感情を抱いたのか?
多分それはルノワール特有の、二極の間で引っ張られ続けるからだと思う。例えば、コミカルなシーンから唐突に国家や戦争が介入してくる。劇中劇のシーンなんかは特にそうだ。フランスの捕虜が女装し、ドイツの軍人たちを笑わせる。それを見て私も同じように笑う。その次の瞬間、デュオモン陥落のニュースにより「勝利」や「敵対」の雰囲気に一変する。私は笑ったまま、その変わった雰囲気に付いていけずに混乱する。そして思い出す。そうだ、これは戦争中の物語なのだ、と。敵同士が仲良くワイワイガヤガヤしているのなんて幻想なのだ、と。
そしてこの映画はそういった混乱や感情の引き戻しの繰り返しなのだ。仕舞いには何もかもが怖くなる。逃げ切ったあのふたりの捕虜を確かにこの目で見ても。

この混乱がこの行き場の分からない感情を抱いた理由のような気がする。
こんなに激しい映画、久しぶりに見た。もう今まで何を見て来たか忘れるくらい。

本当に、本当に。
何と言ったら良いのか。
こんな作品、こんな映画が生まれてしまうなんて、というか、あっていいのか、というか、でもそれと同時に、やっぱりどうしても美しいと言わずにはいられない。


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混乱の中の文章。

映画理論の中へ

今回取っている映画理論のクラスが一番厄介だ。思った通りである。
毎週別の方向から書かれた映画論を一本づつ、決して長くはない量なのだけど(しかし短くもなく)、読むのにも時間がかかり、さらに理解するのに倍ぐらいかかっている。
課題と言えば特になく、読んだものを一ページの要約にして提出するだけなのだが、それもまた、かなりつっかえている気がする。「自分の言葉で説明」は以前より出来るようになったものの、「自分の言葉で他人の思考を説明」はまだまだ難しい。

それでも、楽しいな、と思う。
こんなに多方面から映画を皆見ているなんて。本当に、色々考えてくれるよ、なんて思いながら読んでいる。
今まで遠い存在であった言葉たちが自分の中に取り込まれ、一部になり、自由に扱えるようになることも、結構快感を味わえる(ちょっと、これはジレッタントみたいな感じがするけど)。

エイゼンシュタインモンタージュ理論(特に弁証論的モンタージュの部分)と言う映画理論史的に言えば超古典から始まり、その次の週はそれもまた古典と言えそうな、アンドレ・バザンの『映画とは何か』の中から「写真映像の存在論」「映画言語の進化」を読んだ。モンタージュの週には『ストライキ』を見て、バザンの理論に対しては『ウンベルト・D』が題材。
そして先週はクリスチャン・メッツの『想像的シニフィアン』から抜粋して「同一化、鏡」「知覚しようとする熱意」「否認、フェティッシュ」。見たものは勿論ヒッチコック『裏窓』。
今週は、ジェニファー・バーカーと言う人が現象学を用いて書いた"The Tactile Eye"からイントロのみ。それに合わせて観たものは『ヒロシマ、わが愛』(または『二十四時間の情事』)。
来週はドゥルーズのシネマ1と2から抜粋して読みつつ、アントニオーニの『赤い砂漠』。

「理論」って結局、何なんだろう。
数字を扱う理論でもない文系の理論はどうしても「経験」が介入してくるし、「経験」と一言で言っても決して一般化できるものなんかではなくて。映画より先に理論がある場合は実証例があるので納得できるのだけど(エイゼンシュタインとかソビエトモンタージュの人たちは特に)、バザンもメッツも、存在している映画を主観的に選び自身の理論展開に使用しているから、これは果たして客観性を含んである理論なのか、それともただの正当化なのか?と考えてしまう。映画理論は理論というよりひとつの考え方、映画と言う装置(身体でもスクリーンでも対象物でも、どうぞお好きなように読んでください)に対しての考え方なのだろう。「映画理論」じゃなくて「映画思想」って言ったほうが、間違いない気がする。

私は「理論」が完璧に客観性を持ったものだと思い込み過ぎているのかもしれない。
理論はもっと柔らかい、柔軟性のあるものなんだろうか?(それでもいいの?)

ひとつの考え方だから、そうかこういう風に考えられるんだな、この映画とこの考え方は凄く合うんだな、なるほどなるほどフンフンなんてしながら授業を受けています。
ひとつの考え方だから、もちろん私は否定しても反対しても良いんだろうけど、それでもどの思考も説得力があって、凄いな、なんて。私は今までどうやって映画を見て来たのか。いや、映画をみてそれで完結していた。今はそこからもう一歩踏み出したい感じ。

今日のまとめ。
理論は立証されることと理論が正しいことは同一ではない。
例えばモンタージュ理論を全部の映画の編集に使えないように、理論と映画の相性も考えなければならない。
バザン的リアリズムやエイゼンシュタイン的リアリズム、メッツ的リアリズムなど、同一の単語だが論述者によって内容が変わってくるため、「リアリズム」を考えているとき、誰のリアリズムに一番近いのかを記すべき。

今日の疑問。
材料(映画)が存在し、それをまとめるために理論が存在するのか、理論を作り上げたいから材料を選ぶのか、どっちなんでしょう。
他分野の思想を借用していることが多い映画理論。映画と言う装置はあらゆるものを包括して出来上がっている、それこそ組織化された器官のようなものなので、当たり前っちゃ当たり前だけど。そう考えると、映画のためだけにある理論ってエイゼンシュタインモンタージュぐらい?(でもモンタージュ理論って実際は全体としての映画の理論ではなく、製作上で使用できるものなのではないのか?)(モンタージュ理論から映画は解けないような…)(そんなこともないけど、対象が狭すぎてやっぱり難しそう)

等と考えつつ、さあドゥルーズでも読もうか!

寺山修司著作集<4>(寺山修司)

それもまた大学の図書館から、寺山修司の著作集<4>を借りてきた。
しかし、どうしてこんなに日本文学(しかも原語で)が揃っているのか。前の記事で述べた安部公房全集から、三島由紀夫から、果ては古今和歌集万葉集の現代語訳、日本語言語学の本から何から何まで。到底読み切れない程の数の日本語の本が置いてある。文系図書館の五階の、棚の数で言えば4、5つぐらいなのだが、そこにいるとつい日本の図書館へ来た気分になる。
安部公房全集なんて、一度も開いた形跡がない。何故かと言うと栞紐が全部見事に真ん中へ、綺麗なまま挟まっているからだ。

とにかく。
私にとっての寺山修司は映画『田園に死す』のみであった。一体何をやっている人なのか知らなかった。寺山好きの知人に映画を見させられ(半強制的とも言える)たのが初めての寺山体験。職業は寺山修司だからと聞かされ、なるほどなと思った。そりゃ、一体何をやっている人なのかわかるわけがない。
私は寺山修司ファンではない。映画も好きなほうだし、彼の文章も嫌いなわけではないようだ。ファンではないが嫌いではない。「まあ、好きですね」というくらい。寺山修司ファンというのは、寺山の作品が好きだというよりも、寺山修司本人が好きで好きで堪らないのであろう。書き手に相当の興味と好意がなければ、あのような自己顕示欲に溢れた文章を、「ファンです」とは言えないような気がするのだ。私に『田園に死す』を勧めた知人はその、「ファン」だった。寺山作品だけではなく、それを通して寺山本人が好きで好きで、競馬を嗜み、エキセントリックな映画を撮り、恐山に旅行へ行った。例えば顔を白塗りにする若者たちは決して寺山ファンなのではなく、寺山作品好きなのだろう。彼らが競馬をしたり恐山に行ったりすることはあまり想像できない。

映画も一本しか見ていないし、本も『著作集<4>』しか読んでいない。この本に入っているものは自叙伝的なものが多かったので「強い自己顕示欲の持ち主」と言う印象を抱いたのは当たり前かもしれないが。それでも彼はドメスティックな作家だと思う。自身の経験が作品の軸になっている。

それに比べて、よく言われているように、安部公房は「無国籍」作家だ。作品の軸は自分の経験というよりも自分から出たもの(夢とか)。書き手は安部公房という主観だが、文章は分析結果のレポートのような客観性を感じる。それは自身の経験がその軸(夢や外界に存在するもの)を支えているだけに過ぎないからか。

『書を捨てよ、町へ出よう』の『私は地理が好きだった』にこんな一節があった。
「私は、自分にとって自分自身はつねに絶対的な存在であり、相対的な存在ではありえないと考える。」
この一節で、彼のドメスティックでプライベートな内容の作品の理由が何となくわかった。

寺山修司著作集 第4巻 自叙伝・青春論・幸福論

寺山修司著作集 第4巻 自叙伝・青春論・幸福論

安部公房三島由紀夫は同世代で、寺山修司は10若いが、三人も本を書き、評論を書き、舞台へと活動範囲を広げ、(安部公房は脚本のみだったにせよ)最終的には映画と言う媒体へも参入した。そこで彼らの相違点と類似点を考えたくなった。考えて見れば見るほど相違点ばかりなのだ。

そもそも寺山修司というのは、田舎の作家なのだ。東京に対して漠然と憧れを抱いていた、東北の、それも青森というまた独特の土地出身の作家なのだ。だから彼の作品は土着的で閉鎖的になる。それに比べて三島由紀夫は都会の男で、育ちも良い。成長過程に余裕が有り余るほどあるから、表題があらゆるものに及ぶのだろう。例えば「母殺し」や「上京」に括る必要がないのだ。安部公房と言えば満州育ちで知られているが、その国境のグレーゾーン的な場所での影響なのだろう。それが「無国籍作家」へと繋がっていったように思う。

と、まあ、自分の見解を述べてみたものの、述べられるほど読み込んでいないのが問題。
詳しい人に話してもらいたいなあ。

死に急ぐ鯨たち(安部公房)

大学の図書館から、安部公房を借りてきた。夏休み中に公房全集の第一巻を読んで以来なので、結構久しぶりだ(安部公房はかなりの頻度で読み返す作家なので)。

良いな、と思う。ずっと良いなと思ってきたし、今も良いなと思っている。高校生の頃は怖がりながら読んでいた彼の文章だが、大人になってからそれはただ単に精密なだけだと気付いた。その精密さでグロテスクな表現をされることに、怖く感じてしまっていたようだ。
怖々と『箱男』や『密会』を読んでいたものの、読まないと言う選択にはいかなかった。それくらい彼の文章は魅力的だったからだ。

今なら何故か説明できる。私の想像とする理系人間というのはまさに安部公房のことなのだ。彼のように物事を観察し、分析し、脱構築し、構築することが出来る人間がとにかく羨ましく、そして強く憧れる。
安部公房の世界の中での機械と人間の関係性も好きだからかもしれない。そのふたつは二元論的な存在ではなく、寧ろ同じものなのだ。だから機械は人間化するし、人間が機械化する。人間の生理を機械的に説明し、機械に判断の権利を与える。機械は人間に使われるものではなく、機械を使用することは自己投影の先、だと『死に急ぐ鯨たち』で書いていた。

『死に急ぐ鯨たち』を読んで、安部公房とはポストコロニアル時代の作家だったのだな、と今更気付いた。今まで一体どこをどう読んでいたのか、全く…。
安部公房における主人公の無名性(どこにも属さない、属せない、属そうとしない存在)や、彼自身のルーツ(満州育ち)を考えてみればすぐにわかることだったかもしれない。思った以上にナショナリズムや植民地支配の影響に敏感だった。特にナショナリズムに関しては、かなり批判的に見ているようだ(だから無名の主人公が出てくるのだろう)。

安部公房の長編短編は大方読んだと思っていたが、どうやら『方舟さくら丸』だけ未読だった模様。これを機に、もう少しクリティカルな目で読みたい。
今まで読んできたものも読み直せたら良いんだけど、読みたいものが他に沢山あるからなあ。まあ、それはいづれ

死に急ぐ鯨たち

死に急ぐ鯨たち