映画とは何か

ブレインストーミングのお時間です。

よく、映画って一体なんだろう、と考える。
どうして映画を見るのだろうか、どうして映画が好きなんだろうか、どうしてオスカーを取ったあの作品は私には受け入れられなかったんだろうか、という自分視点の疑問と、映画を見るときにどこを見るべきか、映画分析の基準はあるのか、評論家とは一体なにをする人たちなのか、という包括的な疑問。

映画って何なんでしょうね。
決してひとりで作られるものではない。だけど映画作品=監督の作品という認識がある。アマルコルドだって、「フェリーニの」アマルコルドだ。
しかしその中でカメラマンの癖があったり、音楽の特徴、脚本、編集、色々な人間が関わってその「監督の作品」が出来上がる。では一体、映画は誰のものなのか?

そして映画を見る時にどう見れば良いのか未だに解らない。
このショットの、この角度、このフレーミング、この配置、衣類の色、小物の位置、ロケーション、天気、すべて制作者が決定出来る。小津のように、俳優たちの台詞までコントロールできる。つまり映画でリアリティをいくら望もうが、リアリティなどはなっから存在しないのだ(ザ・映画理論ですね)。映画とは演出された連続性のある写真だと思う。
ならば、だ。全てのシーンが演出されたものと言うのを前提に考えると、「映画の見方」というのは固定出来ないものなのか?映画の中で、偶然性と言うのはありえないだろうか。

論点がズレて来ている!

映画を見る時、一体どこを見れば良いんだろう、と言う話。
ショットだろうか、フレーミングだろうか。そしてそれらはすべて意図的なものなのだろうか(もっと作り手を信用すべきか?)。

さらに話をずらすと、映画にリアリティを求めるのって何なんでしょうね。映画や本や絵なんて言うものは、リアリティが徹底的に排除されたものなのではないのか(じゃあ、ドキュメンタリーはどうなるの?)。リアリティの排除=エンターテイメント、というわけでもないんだけどなあ。
それから私は映画に物語性もあまり求めたくはない。いくらストーリーが破綻して、辻褄が合わなかろうが何だろうが、映画なのだから映像さえ良ければ、と思ってしまう(8 1/2とか)。ストーリーが必要な映画の存在も否定しないけど。
それから、演技力と言うのも信用していないです。映像的に成り立ちさえすれば、上に書いたように、ストーリーも演技力もどうだって良い。第一、演技力って何だよ、演技力って。生活する上で演技をしない人間がいるのだろうか(また脱線)。

映画学をしている人たちは、なにと並列して考えているのだろうか。
作家論か作品論か、社会学的に見ているのか、それともテクノロジーの面。母国作品じゃない映画を理解するためには、その土地の文化もやはり知らねばならないのだろうか。どのくらい深くまで?

映画って何なんだろう。
たぶん、死ぬまで考え続ける気がする。