「アカデミック」な英語

ラン・ローラ・ラン』について書いた5ページ程度のペーパーが返って来た。ローラの一回目のシナリオからラストにかけての映画内時間と実際の連続する時間への移行が編集によってどのように描かれているか、みたいなことについて書いた。成績はA-、良いほう。週に2回の短いペーパーも平均でB+と、そこまで悪くなかった。
が、しかし。コメントの一番最後に、こう、書かれてしまった。

「これからのために、文法や不自然な文章にならないようにもっとライティングに対して取り組む必要あり」

うーん、と思う。私は中高も別にインターナショナル・スクールに通っていたわけでもなく、英語の成績がズバ抜けていいわけでもなく(むしろ赤点ギリギリばかりだった)、高校を卒業した後に海外へ行った人間だ。それでもやはり大学で使えるような英語のレベルには持って行けず、語学学校で合計一年ちょっと英語の勉強をした後帰国してIELTSの勉強を日本でして、そして今の大学へ入学した。中学から義務教育で英語を勉強し始めたとは言え、ちゃんと自分からやりはじめたのは高校卒業以降なので、英語を勉強し初めて合計で4年ぐらい、といつも聞かれたら答えている(時間差や年齢不詳疑惑が生じますが、どうぞお気になさらずに!)。

この大学へ入って、以前より「英語力」というのは伸びたと思う。以前より使える単語も増えたし、この言葉はこの状況で使える、でもこういう状況だったらこっちのほうが合っている…と、全体の雰囲気やバランス等も考えながら書くようになった。日本語の小論文の書き方は習わなかったので(いや、高校でやったのだろうけど、嫌いだったから記憶に無い)知らないが、英語の小論文(イントロダクション→ボディパラグラフ→コンクルージョン)の構成ももう迷うことも無い。
でも、不自然な文章が多い。文法的にもおかしいと言われるときもあるし、「こうしたほうが聞こえが良い」と言われるものもたくさんある。言わんとしていることが掴みにくい、というコメントも多々ある。

第二言語でペーパーを書く人間としてなにより気をつけていることは、簡潔的に書くことだ。文章はなるべく短く、難しい使い慣れていない単語は使わず、言いたいことだけをハッキリと書く。
でもそういう文章は、やはり幼さを感じる。それにぶっきらぼうにも見える。

人文科学にいる身として、ペーパー/エッセイ/レポートからは逃れられない。自分で選んだことなのでそれは構わないし、書くことは面白い。なにがつらいかと言うと、言いたいことが英語になると途端にバラバラになってしまうのだ。伝えたいことはたくさんあるのに英語にすると全く繋がらない、言葉が出ない!
母国語で考えるときと、外国語で考えるとき、後者は生産性が著しく下がると聞いた。それは本当のことだと思う。一番いい方法は、英語で考えて英語で出力をすることなのだが、頭の中で日本語が絡まないようになんてすることは不可能に感じる。今は、英語でメモを書く→一通りまとめる→日本語でまとめ直す→英語と日本語で広げて行く、という方法をとっている。母国語を使ったほうがやはり精確に表せるし、言語化した時点で生まれる思考とのズレを最少に抑えられる…と、思う。

「英語が母国語の人間と同じようなレベルの文章が書けるようになる、なんて思わないこと」と、ポーランド出身の先生は言った。「努力すればある程度は大丈夫だから」と。
幼少の頃から英語と生活して来た人たちを「先天型」、私たちのような高校卒業、ある程度成長してから英語と生活しようとしている人間を「後天型」と呼ぶことにして、さてその「後天型」の人間はどのようにして正しい英語で正しい論文を書けるようになったのか、とても疑問であります。
大学留学で、文系に行く人って言うのはあまり(と言うか一度も)見かけない。大体はビジネス系、理系、それかたまに芸術系。なのでこの疑問に答えてくれる人は周りに居ないのだ。

というか、日本語でも言語化する際に思考とかなりズレるんだから、英語でズレまくるのも仕方ないんじゃないか。母国語で話していてもミスコミュニケーションを感じるときもあるんだから、英語であってもしょうがないんじゃないか!と思えてくる。
それを、どうにかしなきゃならないんだが…

何より私自身、非常に理論的思考と言うか、建設的思考が苦手なんだろうな。
「英語でペーパーを書いたり、英語で思考するとズレてしまうなあ」と思ってこの記事を書き始めたのは良いが、広がり出して取り留めが無くなってきている。思いついたことを打ちまくっているから当たり前なんだけど。

記事の落としどころを見失った。
何が言いたいかと言うと、ただ、愚痴を残したいだけだったのかもしれない。

まったく。