雑記

先週で夏学期が終わった。映画学入門も完了。成績は良かったです。
新学期は9月の頭からなので2週間ずっと映画見て本読むかーと色々借りて来ているんですが(アンドレ・バザンとか、認知派映画理論の本とか、理論入門の本とか、借りましたよ、映画学徒らしく)、アルバイトを始めてしまったので案の定時間が取れずさっぱり見れていません+読めていません。
いや、映画はちょっぴり見ているんですが。カラトーゾフの『怒りのキューバ』とか、シアターで『パシフィック・リム』とか。あとで感想メモしておかねば。

それよりアルバイトがちょっと面白くて、毎日色々考えるネタになっています。
ホテル内のレストランでアルバイト始めたのですが、唯一の外国人(アジア人)で、スタッフもカナダ人ばかりだしお客さんも不思議と白人ばかり。自分が凄く浮いているのがわかる。わかるのだけど、でも他のスタッフの人たちは私が何人かだなんてことは気にしていないみたい。初めて5日目ぐらいで「あ、日本人なんだね」と言われた。英語の喋れないカナダ人なんて珍しくないからだろうか。本当に移民の国と言うのは、人種がないよなあ。

スタッフの7割ぐらいの人がケベック出身なので、彼ら同士で話す時はフランス語を使っている。そういえばフランス語もカナダの公用語だったと改めて気付いたものの、ケベックの人間だけがフランス語と英語を使うのに公用語のひとつだなんて、ちょっと不思議。
人によって、凄くフランス語訛りのある英語を使うケベック人がいたり、どちらも流暢(フランス語ことは全然わかりませんが)に使う人間がいたり、妙にイギリスっぽい発音の人もいたり、不思議でならない。
そう言う意味で、カナダってアメリカよりわからない部分が多い。アメリカはデカすぎて上からした右から左の差が激しいのでわからない部分が多い(一般化しにくいと言うか)けれど、カナダの場合色々混ざっているけどひとつひとつ元の形を保っている感じがして、どうしてそうなれているのかがわからない。

私はかなり「単一」に影響されている人間なんだと思う。ひとつの言語、ひとつの民族、ひとつの人種。日本はそう言う国だとばかりずっと思ってきた。そうだったのかもしれないし、今はそうじゃないかもいれない。だからひとつの国にひとつ以上の民族と言語と政府が存在すると、どうやって成立しているんだろう?どうやってお互い理解し合っているんだろう?と考えてしまう。
駄目な意識だ。
結局理解し合うと言うのは言語や民族は関係ない話で、関係あるのは「個人」なんだろう。なのに何故か私の場合、民族レベルでしか考えられない。イギリスで一年間高校生をしていたときにかなり差別をされて、そのせいだと思うのだけど、それ以来ほぼずっと海外で過ごしているのに未だにこの考えが抜けていない自分が憎たらしい。いつまで根にもつ気なんだろうか。

いや、その前に、「民族」「個人」と言う話の前に、他人と理解出来る可能性と言うのを信じていないのが問題なのかもしれない。