サイレント映画とその音楽

随分と書かないでいたようだ。まさか最後の記事が10月末だったなんて!自分でも驚いている。
秋学期は無事に終わったものの(成績も別段悪くなかった)、あまりの忙しさに、ほとんど記憶が無い。必死すぎるのも駄目だな。真面目に取り組んだけれど短期的でしかなかったようだ。考えは巡らせていたものの、考え抜くには至らなかった感じ。じっくりと腰を据えて学ぶことができなかった。無念。
耐えて耐えての4ヶ月だった。一体何をあんなに耐えたんだろう。忙しさ?テスト勉強?つらさ?持続?
もっと誠実にならなければならない。それこそ馬鹿みたいに。馬鹿真面目でも馬鹿誠実でもいいから、そう言った類の馬鹿になりたい。損をしてでも馬鹿でありたい。

というのはまあ置いておいて、先週から冬学期がスタート。人類学の授業は言語人類学のみ、あとはアジア映画(韓国、日本、中国映画をナショナリズムや歴史的、社会的背景を通して見ていく)、映画理論(エイゼンシュタインやメッツ等の古典的理論から人種やポストコロニアル等最近の理論まで)、映画史後期(1950年以降)の4つ。ドイツ映画を通してみるドイツ文化、という授業も行ってみたものの、あまりパッとしなくて、結局取らずに終わった。どうも、文化的に映画を観ると言うことに対して懐疑的と言うか、肌の合わなさというのを感じている。「文化」も結局は植民地支配の影響の末梢のような気がして、あまり重要なファクターとも思えず。それから前回の反省も踏まえて、余裕を持ったスケジュールにしたかった、というのもある(本当は急がなきゃいけない身なんだがなあ)。

ところで、昨日、映画理論のクラスでエイゼンシュタインの『ストライキ』を見た。このクラスはもちろんエイゼンシュタインの『映画形式への弁証法的アプローチ』から読み進めていく(ちなみに次に読むものはバザンで、見る映画は『ウンベルト・D』)。

自身のモンタージュ理論を展開していった、それはそれは有名な作品のひとつだが、どうしても気になることがあった。『ストライキ』だけではない、古いサイレント映画を見るといつも思うことだ。それは、「音楽はこれでいいのか?」という単純な疑問。
キートンの『将軍』は、よく耳にするクラシックがかかっていた記憶がある。耳にしたことがあった曲だったから、あまり音楽に関しての印象は無い。もっと昔の、リュミエール兄弟やE・ポーター、メリエスなどの作品も、ピアノ曲がかかっていたように”思う”。キートンの『将軍』と同じように、音楽はあくまであとから挿入されたもので、あまり存在感を放っていなかったから、覚えていないのは当たり前だろう。あまり気にもしていなかった。
一方、レッジョの『コヤニスカッティ』は別だ。レッジョ自身がフィリップ・グラスへ頼み、レッジョの思い描いたものに近い音楽が付けられている。映像と音楽のシンクロ率はもちろん高く、最早フィリップ・グラスのあのミニマル音楽がなければ『コヤニスカッティ』とは言えないだろう。
レッジョの作品を持ち出してはいけない。私が疑問に抱いているのは、制作者がとっくの昔に亡くなった作品に、制作者の意図かどうかもわからない音楽を付けることの道徳性だ。

エイゼンシュタインの『ストライキ』は、アロイ・オーケストラが伴奏を付けていた。アロイと言えばサイレント映画音楽伴奏グループとして有名だろう。彼らの音楽は普遍的なものではなく、オリジナリティに溢れ、力強さに溢れ、個性的だ。耳にしただけでわかる。かなり独特だからだ。シンセサイザー、管楽器、ドラム、それから金属を叩く音。非常に格好良い。個人的には大好きな音を持ったグループのひとつだ。
だが、しかし。『ストライキ』における彼らの演奏は、エイゼンシュタインの意図したモンタージュによる効果の妨げにはなっていないだろうか?いや、実際は妨げにはなっていないし、寧ろ、音と映像でさらに印象が強まっている節がある。それはきっといいことかもしれない。きっとエイゼンシュタインも良いと言うかもしれない。しかし、ポジティブな効果が現れようが、ネガティブなものが現れようが、「ほんもの(authenticity)」の妨げにはなっているように思えてくる。

ヴェルトフの『カメラを持った男』。マイケル・ナイマンが演奏をしたバージョンと、アロイ・オーケストラが演奏したふたつのバージョンがある。私は先にアロイ版を見たせいもあるが、それはそれは最高のひとときだった。映画内でのソビエトは工業化に対して意欲的で、モダニズムを純粋に求め、人間と機械の一体感(もうこれはシンフォニーと言ってもいいだろう)がヴェルトフの映画眼<キノグラース>を通して映し出される。そこでアロイの金属混じりのパーカッションが鳴り響く。最高の、最高の瞬間だった。
一方、ナイマン版は、あまり映像とのシンクロを楽しめるものではないように感じた。と言ってもこれは好みの問題もあるのだろうけれど…。
アロイ・オーケストラは、ヴェルトフが残したスコアを元に編曲したらしい。果たしてどの程度がオリジナルで、どの程度編曲がなされているのかはわからない。だが、ナイマン版よりも本物(つまり、制作者の意図に沿うように)に近いものだろう、と信用できる。

ストライキ』でのモンタージュ効果による感覚の高揚は、果たして映像だけのお陰なのだろうか。それともあの、アロイ・オーケストラの、力強い演奏があるせいだからだろうか。
ラングの『メトロポリス』もそうだ。私はアロイ版は見ていないが、サントラCDだけは持っている。やはり非常にかっこいい、「機械」というキーワードにピッタリの音だ。でも力強すぎて、映像本来の力を妨げてはいないだろうか?

アロイ・オーケストラのホームページを見ていると、どうやらキートンの『将軍』にも音楽をつけているようだ。見たいような、聞きたいような、複雑な心境。彼らのサウンドトラックは感動するほどかっこいい。だから、困るのだ。人の感覚をダイレクトに操作するという意味では、映像のモンタージュよりも音楽のほうが手っ取り早いのではないか、とすら考え始めている。映像のモンタージュ(ここではエイゼンシュタインが述べていた弁証/知的モンタージュと言われているもの)のように、テーゼとアンチテーゼの衝突でジンテーゼが生まれるというプロセスを音楽は必要としていないのではないか。
その、制作者の意図に反しているかも沿っているかもわからない音楽は、またひとつの芸術かもしれないが、それと同時に実際の作品とは別のものを作り上げてしまっているように見える。

多分私は、サイレント映画の当時の上映方法についての知識があまりにも無さ過ぎる。だからきっとどこかで大きな勘違いをしている、と、思う。
そもそも21世紀の観客として、音が無いと見られないってのも事実かもしれない。観客合わせて作品も変えられるべきだろうか?映像が飽和する世界で生きる私たちの目、頭にも耐えられるように。


ストライキ [DVD]

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サイレント映画と後付けの音楽についての論文はありそうだけど。
探してみよう。