死に急ぐ鯨たち(安部公房)

大学の図書館から、安部公房を借りてきた。夏休み中に公房全集の第一巻を読んで以来なので、結構久しぶりだ(安部公房はかなりの頻度で読み返す作家なので)。

良いな、と思う。ずっと良いなと思ってきたし、今も良いなと思っている。高校生の頃は怖がりながら読んでいた彼の文章だが、大人になってからそれはただ単に精密なだけだと気付いた。その精密さでグロテスクな表現をされることに、怖く感じてしまっていたようだ。
怖々と『箱男』や『密会』を読んでいたものの、読まないと言う選択にはいかなかった。それくらい彼の文章は魅力的だったからだ。

今なら何故か説明できる。私の想像とする理系人間というのはまさに安部公房のことなのだ。彼のように物事を観察し、分析し、脱構築し、構築することが出来る人間がとにかく羨ましく、そして強く憧れる。
安部公房の世界の中での機械と人間の関係性も好きだからかもしれない。そのふたつは二元論的な存在ではなく、寧ろ同じものなのだ。だから機械は人間化するし、人間が機械化する。人間の生理を機械的に説明し、機械に判断の権利を与える。機械は人間に使われるものではなく、機械を使用することは自己投影の先、だと『死に急ぐ鯨たち』で書いていた。

『死に急ぐ鯨たち』を読んで、安部公房とはポストコロニアル時代の作家だったのだな、と今更気付いた。今まで一体どこをどう読んでいたのか、全く…。
安部公房における主人公の無名性(どこにも属さない、属せない、属そうとしない存在)や、彼自身のルーツ(満州育ち)を考えてみればすぐにわかることだったかもしれない。思った以上にナショナリズムや植民地支配の影響に敏感だった。特にナショナリズムに関しては、かなり批判的に見ているようだ(だから無名の主人公が出てくるのだろう)。

安部公房の長編短編は大方読んだと思っていたが、どうやら『方舟さくら丸』だけ未読だった模様。これを機に、もう少しクリティカルな目で読みたい。
今まで読んできたものも読み直せたら良いんだけど、読みたいものが他に沢山あるからなあ。まあ、それはいづれ

死に急ぐ鯨たち

死に急ぐ鯨たち