A(森達也、1998)

ドキュメンタリー映画のクラスの期末レポートのレジュメ(って日本の大学だと言うのだっけ?)が配られた。ひとつドキュメンタリー映画を選び、それについてのバックグラウンドといくつかの批評をまとめて、自分の議論も書き加える、まあ内容的にはいたって普通の期末レポート。さて何を見よう?もちろんそれはcontroversial(賛否両論)でなければ批評・評論は見つからないし、でも日本のドキュメンタリーを見たいなあと色々調べて、とりあえず図書館にあった森達也のオウムを題材にした、特に当時の広報部副部長であった荒木浩氏に焦点を当てた『A』を見た。オウムの内部から見る日本の社会、外(マスコミ、マスコミが報じるオウム、メディア自体)と中(信者たち)の温度差、そして記録映像の倫理性。撮影はハンドカメラでとにかく撮れるだけとってそして編集した、という感じで、「映像の力」を信用して作っているわけではなかっただろうが、それが逆に荒木氏(当時28歳)の素朴さ・一般的な「オウム信者」というイメージから乖離することに役立っていたような気がする。少なくともこれは『意志の勝利』や『カメラを持った男』のような映画による力を借りて観客に疑問を投げかけたり観客に影響を与えたりするものではない。ドキュメンタリーと言う手法がこの『A』のプロパガンダ性に繋がっているような気がする。

そう、これは意図的かどうかは別として、一種のプロパガンダ映画だ。
例え森自身が中立的な立場でいて、オウムの信念に対して疑問を抱き、荒木氏とのインタビューを通じて彼に「社会復帰」をすべきではないかと言う誘導質問をしたとしても、一般的なオウムのイメージを覆されてしまいそうになる。それくらい『A』の中での荒木氏は好青年で、穏やかで、素朴で、そして他の信者たちも血の通った、ふつうの人間だった。恐らくこれはサリン事件等の犯罪をメディアを通してオウム真理教を見てきた日本人が一番知りたくなかった事実だ。恐らく当時の日本人は、オウム信者は人間ではない、と思いたかったはずだ。そうでなければあれほど凶悪な事件を起こすはずが無い、あんなことする人間はいるはずはない、と。悪魔には悪魔で居て欲しいと言う願望は責任転嫁でもあるし無為無策でもある。
考えたくないことを気付かさせられる。自分たちが思ってきた事実と別の、正反対のものが、しかもドキュメンタリーと言う、現実の再構築または現実に限りなく近い映画手法によって暴かれる。これは明らかにオウム側のプロパガンダとして捉えることが出来るが、しかし森達也の中立性が法的に立証される場面が、偶然とは言え起こってしまった。最早この作品の中立性については議論する余地はなく、ただただ私たちは彼のビデオテープの政治的使用について、オウム真理教と言うカルト宗教、数々の凶悪犯罪を起こしたグループの信者の釈放に結果として加担した森の倫理観に対して攻めることしか出来ない。それはこの映画の倫理観とは全く別の議論である。
この一連の流れは、ドキュメンタリー映像がどこまでインデキシカリティーとしての作用を持ったと言えるのかを考えることが出来ると思った。

まだ見たばっかりだからメモ程度に書いてみたけど、でも本当に凄い映画だった。ただ、オウム真理教の背景を知っている日本人だからまだバイアス(と言っている時点で私はマスメディアの報道に身を委ねている人間のひとりなのだが)にはかからず鑑賞することができるが、果たしてそのコンテクストを知らない人間が見たらどうなるか。間違いなく荒木氏にシンパシーを抱くだろう。彼だけじゃなく、他の信者たちに対しても。確かに彼らの言っていることはどこまでもナンセンスで(「尊師は脳波が止まってるんですよ」って、何言ってるんだ?)、食生活や信念もまるで子供が考えたもののようだが、あくまでひとつの新興宗教として受け取ることが出来る。彼らの理念も、ひとつの理念だと、受け取ることが出来る。どうして同じ人間で、少しだけ極端な理念を持った人間がここまでマスコミや一般人に攻撃されているのか?まるで人権がないかのように扱われているのか?同じように食べて、考えて、生きているだけなのに!と。

特に私は、その偶発的に起きた公安の誘導的、人為的な不当逮捕の直後のシーンがかなりショッキングだった。信者がひとりパトカーで連れ去られたあと、一般人の女性と荒木氏、そしてもうひとりの信者との会話で、「そんなに頭が良いなら社会の役に立つことをしたら良いじゃない」と言う言葉に対し、「役に立つって何をすれば良いんですか」という信者の答え。世間とのギャップを埋めるためには何か理念が必要だ。それがただオウムだっただけなんだ、と、気付いてしまった。私も、気付きたくなかった。

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