ドキュメンタリー映画の授業で見た作品

『極北のナヌーク』(ロバート・フラハティ、1922)
まだまだサイレント時代だったのでインタータイトルに頼らざるを得ないが、そのせいで物語性も増して、詩的表現になっている。イヌイットの生活を映し出しつつ、観客が求めているイヌイット像を作り上げているような作風で、かなりフラハティのロマンチシズムが反映されているなと思う。
レコードをかじるシーンは、ナヌーク自身が出したアイデアだそうだ。原始的生活を保っているように見えて、それはあくまでカメラの存在ありきで、やはり「リアリティ」とは言えない。

ナヌーク夫人はカメラをまっすぐに見据える(カメラを意識する)シーンが多いが、ナヌーク本人がカメラを見て観客と目が合うシーンはワンシーン、セイウチを食べているシーンだけだ。
カメラを意識すると言うことが何よりもリアリティに近く、カメラを意識しなければしないほどファンタジーに近くなる。カメラとカメラが捉える人間の関係性が作り上げる世界を考えるきっかけになった。

それでもフラハティの撮る極北は、ロマンチックで荒々しく、何より美しい。

極北の怪異 (極北のナヌーク) [DVD]

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『ライズ』(デイビッド・ラシャペル、2005)
マルチクリエーター、ラシャペルのドキュメンタリー作品だが、彼の美学・彼の世界が色濃く出ている。なんのかんの言う前に、個人的にはどうも好きになれず。映像(クランピング(Krumping)、クラウニング(Clowing)と呼ばれる力強いダンス)と音楽のアンサンブルは見ていて楽しいものだったが、2時間ずっとプロモーションビデオを見ている気分になってしまった。と言うか、そう言う映画なんだろう。
果たしてラシャペルが撮りたいものはLAで生き抜く黒人たちの姿なのか、ある程度の内容を持ったプロモーションビデオなのか。映画評論家キャサリン・クーエンはかなり激しく批評している。ラシャペルが映画で行った事柄はすべて「黒人文化」というステレオタイプに依存し盗用したもので、歴史的コンテクストを完全に無視している、と。

RIZE [DVD]

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以上2つ、ドキュメンタリー映画がもたらす問題とは、現実を「表現」する時に起こる問題とは、そして現実と表現の違いで生じる道徳性とは?という授業の題材。

『カメラを持った男』(ジガ・ヴェルトフ、1929)
アヴァンギャルドドキュメンタリー映画の金字塔だ。ちなみにマイケル・ナイマンが音楽をつけたバージョンではなく、アロイ・オーケストラのバージョン。ナイマンのもちらっと見たけれど、アロイ・オーケストラのほうが断然良い気がする。
1929年時点で考えられる全ての映像効果を取り入れてあって、とにかくヴェルトフの「映画がもたらす力」に対しての全面的な信頼を伺える。映画がもたらす力、カメラが暴く現実。
カメラはカメラを持った男を追いかけつつ、そして人間と機械の一体感を写し続ける。人間と機械が共存共栄している社会。テクノロジーが偏在する社会。

Self-reflexivityって日本語だと何になるんだろう。「自己再帰性」らしいけれど全然ピンと来ない。映画内でカメラが映ったり、そういった「映画」と言う世界にあるべきではない物(カメラとか制作者側の人間とか)が映って「映画世界」が崩壊する(崩壊って程ではなく、「あ、映画見てたんだ」と認識してしまうこと)ことを言うのだけど…。例えば第四の壁を越えることもself-reflexiveの瞬間だったりする。第四の壁を越えて映画世界は観客と繋がって、その瞬間に観客は「映画の鑑賞者」から個人に戻る。
この『カメラを持った男』は始めから終わりまでself-reflexiveの瞬間でいっぱいで、それが一体どういうことなのか、全く煮え切らないので、どなたか良い説明が乗っている本をご紹介ください。映画を見ていると認識させることが何に繋がるのか。

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コヤニスカッツィ』(ゴッドフリー・レッジョ、1982)
音楽と映画編集が与える相乗効果の真骨頂だよなあ。超高速モーションとフィリップ・グラスのリフレインが延々に続くようなミニマル音楽が合わさって、被写体が何なのかわからなくなってしまう。催眠効果。
対比と言うか並べているものが極端なせいもあるかもしれない。20分ほど散々人のいない壮大な自然を写したあと、いきなり工業的な物が入ってくる。そして一気にテクノロジーによってシステム化された社会への変換。気が遠くなるほどのスローモーションの次に、何が動いているのかもわからないほどのファストモーション。S極とN極へ行ったり来たりテレポートしている感覚になる。人間の集団を写したあと、既製品のような個人のスナップショット(それも静止画ではなく、スローモーションなので見ていて不快感がある)。夜のネオンを写したあとの、廃墟。大都市の次の瞬間は、電子回路。あっちへこっちへ引っ張られて、音楽でいきなり転換させられて、暴力的と言っていいほどの編集だった。

大画面で見ないとあまり意味が無い映画だなあ。
私はとても好きになって映画をみたあとフィリップ・グラスのCDを5枚ほど図書館から一気に借りたくらいなのだが、クラスの中では明らかに不快感を表した生徒もいた。

以上2作品、モダンとポストモダンの描写について、などの題材。
ビル・ニコルズがドキュメンタリー映画をモード別に分けたので、その理論を使いつつ。