『意志の勝利』(レニ・リーフェンシュタール、1933)と、メモ

映画って、制作者も観客も、結局はモラルと美学の葛藤なのかもしれん、と、なんとなく。
例えば『意志の勝利』でのレニ・リーフェンシュタールはモラルよりも美学を優先した。そしてその観客である私は、彼女の美学を感じつつ、しかし「良い映画」とは言えない/言いたくないのは、やはり自身のモラルがあるからだ。良い映画、美しい映画だなんて認めてしまったら、ヒトラーやナチズムを認めてしまうような気がして。

『意志の勝利』はそのくらい力のある映画だった。あらゆるものが対称し合って、最終的にはナチズム、ヒトラーによる統一感を与えてくる。映画効果の蓄積は、凄い。

この映画が出来てもう70年経っている。映画の対象物、ヒトラーやナチズム、SS、SA、ヒトラー・ユーゲントの少年たち、ニュルンベルクの町並みがその後どういう道を辿ったのか、私は知っているが彼らは知らない。実際にヒトラーが行った政策がどういうものだったのか、今の私たちは知っている。だから「美しい映画」とは言いたくないのだ。
でも実際、1933年にドイツにいて(いや、ドイツにいなくても)、そしてあの映画をみていたらと考えると、間違いなく手放しで褒め称えていただろう。映画の出来と、そしてフューラー。

モラルを、と言う前にまず「モラル」から定義しなければならないかもしれないけど、とりあえずそのことは忘れて言うと、『意志の勝利』は美しい映画だった。
雲の隙間から見下ろすオープニングショットに始まり、地上に着いてからの群衆の喝采ヒトラーの唯一無二の存在がショット・リバースショットを通して対話しているようだ。そのように、群衆とヒトラーと言う対比がこの映画の中軸だった。それが蓄積されていって、最終的にルイトポルトアレーナ広場昼間集会でひとつになる。それは素晴らしいほどの統一感を生み出していて、私ははっきり言ってほとんど泣きそうだった。静かで美しいロングショット!

だけど、だ。
歴史は(一部だが)知っている。ヒトラーがなにをした人物なのかも、ナチスドイツがなにをしたかも、そしてどうなったかも、知っている。だから言えない。でも言いたい。だって本当に「映画的に」見たら、素晴らしい。

それだ。映画的に映画を見るのと、人間的/個人的に映画を見るときに生まれる葛藤がとても苦しい。『意志の勝利』が好きな映画のひとつだなんて言えないのは「モラルに反する」からだ。どうやら私は美学とモラルを切り離す勇気がまだないみたい。
でも映画と言うひとつの芸術体形をやっている以上、自分の美学に反することは、モラルに反すること以上にしたくない、とも強く思う。
せめてここでは自分の美学を大事にしよう。

意志の勝利 [DVD]

意志の勝利 [DVD]