東京画

縁側に座る笠智衆の姿、撮影当時を懐かしむ厚田雄春氏のインタビューを見ていたら、思わずホロリと来てしまった。
今更のことだが、自分は小津ファンなんだなあ、と再確認。
そしてまたヴェンダースもそうなのだろう。

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東京物語』のオープニングと共に始まる、83年の東京を映すヴェンダースの記録映画。笠智衆厚田雄春氏のインタビューも挟みつつ、現在の東京にはない当時存在していたものを探すヴェンダースの旅。軍艦マーチが流れるパチンコ屋や、ビル屋上の打ちっぱなし場、食品サンプル工場、それから竹の子族など当時の風俗も映っている。所々、アメリカナイゼーションを感じる日本、東京。

何だろう。違和感をおぼえながら見ていた。
小津映画の中の『無』『虚無感』『喪失感』と、この『東京画』における"nothingness" "emptiness" "the sense of loss"って、別物のような気がしたからだろうか。

小津映画の中の虚無感/喪失感は、背景に敗戦と言う覆すことの出来ない絶対的な敗北があり、そして(特にカラー作品で)娘たちの嫁入りにおける父親の孤独から来ていると思っている。軽いジョークやコミカルなカットを挿入しつつ、鮮やかな色彩を持った美術、精密に設計された構図の中で、虚無感/喪失感は個人レベルに留まらず、「敗戦」によって社会レベルにまで及んでいる。しかし『東京画』でのヴェンダースの"empty"は、「敗北」から来ているものではなく、ただ単に社会不合から来ているような気がして。パチンコ屋(現実逃避)、打ちっぱなし場(これもまた現実逃避の一種)、食品サンプル工場(偽物制作者のアイロニー)、竹の子族(所謂、不良)を見て感じ取った「小津映画にあった日本人精神の無さ」からの虚無感/喪失感なのではないか。少し、「あんたまさか、60年代の日本を期待していたんじゃないだろうな?」と疑問に思った。

ヴェンダースは何を求めに日本へ、東京へ来たのだろうか?
80年代の東京へ、一体何を?

と、まるで文句ばかり並べたみたいだが、それは自分の理解力が足りない証拠だろう。