サイレント映画とその音楽

随分と書かないでいたようだ。まさか最後の記事が10月末だったなんて!自分でも驚いている。
秋学期は無事に終わったものの(成績も別段悪くなかった)、あまりの忙しさに、ほとんど記憶が無い。必死すぎるのも駄目だな。真面目に取り組んだけれど短期的でしかなかったようだ。考えは巡らせていたものの、考え抜くには至らなかった感じ。じっくりと腰を据えて学ぶことができなかった。無念。
耐えて耐えての4ヶ月だった。一体何をあんなに耐えたんだろう。忙しさ?テスト勉強?つらさ?持続?
もっと誠実にならなければならない。それこそ馬鹿みたいに。馬鹿真面目でも馬鹿誠実でもいいから、そう言った類の馬鹿になりたい。損をしてでも馬鹿でありたい。

というのはまあ置いておいて、先週から冬学期がスタート。人類学の授業は言語人類学のみ、あとはアジア映画(韓国、日本、中国映画をナショナリズムや歴史的、社会的背景を通して見ていく)、映画理論(エイゼンシュタインやメッツ等の古典的理論から人種やポストコロニアル等最近の理論まで)、映画史後期(1950年以降)の4つ。ドイツ映画を通してみるドイツ文化、という授業も行ってみたものの、あまりパッとしなくて、結局取らずに終わった。どうも、文化的に映画を観ると言うことに対して懐疑的と言うか、肌の合わなさというのを感じている。「文化」も結局は植民地支配の影響の末梢のような気がして、あまり重要なファクターとも思えず。それから前回の反省も踏まえて、余裕を持ったスケジュールにしたかった、というのもある(本当は急がなきゃいけない身なんだがなあ)。

ところで、昨日、映画理論のクラスでエイゼンシュタインの『ストライキ』を見た。このクラスはもちろんエイゼンシュタインの『映画形式への弁証法的アプローチ』から読み進めていく(ちなみに次に読むものはバザンで、見る映画は『ウンベルト・D』)。

自身のモンタージュ理論を展開していった、それはそれは有名な作品のひとつだが、どうしても気になることがあった。『ストライキ』だけではない、古いサイレント映画を見るといつも思うことだ。それは、「音楽はこれでいいのか?」という単純な疑問。
キートンの『将軍』は、よく耳にするクラシックがかかっていた記憶がある。耳にしたことがあった曲だったから、あまり音楽に関しての印象は無い。もっと昔の、リュミエール兄弟やE・ポーター、メリエスなどの作品も、ピアノ曲がかかっていたように”思う”。キートンの『将軍』と同じように、音楽はあくまであとから挿入されたもので、あまり存在感を放っていなかったから、覚えていないのは当たり前だろう。あまり気にもしていなかった。
一方、レッジョの『コヤニスカッティ』は別だ。レッジョ自身がフィリップ・グラスへ頼み、レッジョの思い描いたものに近い音楽が付けられている。映像と音楽のシンクロ率はもちろん高く、最早フィリップ・グラスのあのミニマル音楽がなければ『コヤニスカッティ』とは言えないだろう。
レッジョの作品を持ち出してはいけない。私が疑問に抱いているのは、制作者がとっくの昔に亡くなった作品に、制作者の意図かどうかもわからない音楽を付けることの道徳性だ。

エイゼンシュタインの『ストライキ』は、アロイ・オーケストラが伴奏を付けていた。アロイと言えばサイレント映画音楽伴奏グループとして有名だろう。彼らの音楽は普遍的なものではなく、オリジナリティに溢れ、力強さに溢れ、個性的だ。耳にしただけでわかる。かなり独特だからだ。シンセサイザー、管楽器、ドラム、それから金属を叩く音。非常に格好良い。個人的には大好きな音を持ったグループのひとつだ。
だが、しかし。『ストライキ』における彼らの演奏は、エイゼンシュタインの意図したモンタージュによる効果の妨げにはなっていないだろうか?いや、実際は妨げにはなっていないし、寧ろ、音と映像でさらに印象が強まっている節がある。それはきっといいことかもしれない。きっとエイゼンシュタインも良いと言うかもしれない。しかし、ポジティブな効果が現れようが、ネガティブなものが現れようが、「ほんもの(authenticity)」の妨げにはなっているように思えてくる。

ヴェルトフの『カメラを持った男』。マイケル・ナイマンが演奏をしたバージョンと、アロイ・オーケストラが演奏したふたつのバージョンがある。私は先にアロイ版を見たせいもあるが、それはそれは最高のひとときだった。映画内でのソビエトは工業化に対して意欲的で、モダニズムを純粋に求め、人間と機械の一体感(もうこれはシンフォニーと言ってもいいだろう)がヴェルトフの映画眼<キノグラース>を通して映し出される。そこでアロイの金属混じりのパーカッションが鳴り響く。最高の、最高の瞬間だった。
一方、ナイマン版は、あまり映像とのシンクロを楽しめるものではないように感じた。と言ってもこれは好みの問題もあるのだろうけれど…。
アロイ・オーケストラは、ヴェルトフが残したスコアを元に編曲したらしい。果たしてどの程度がオリジナルで、どの程度編曲がなされているのかはわからない。だが、ナイマン版よりも本物(つまり、制作者の意図に沿うように)に近いものだろう、と信用できる。

ストライキ』でのモンタージュ効果による感覚の高揚は、果たして映像だけのお陰なのだろうか。それともあの、アロイ・オーケストラの、力強い演奏があるせいだからだろうか。
ラングの『メトロポリス』もそうだ。私はアロイ版は見ていないが、サントラCDだけは持っている。やはり非常にかっこいい、「機械」というキーワードにピッタリの音だ。でも力強すぎて、映像本来の力を妨げてはいないだろうか?

アロイ・オーケストラのホームページを見ていると、どうやらキートンの『将軍』にも音楽をつけているようだ。見たいような、聞きたいような、複雑な心境。彼らのサウンドトラックは感動するほどかっこいい。だから、困るのだ。人の感覚をダイレクトに操作するという意味では、映像のモンタージュよりも音楽のほうが手っ取り早いのではないか、とすら考え始めている。映像のモンタージュ(ここではエイゼンシュタインが述べていた弁証/知的モンタージュと言われているもの)のように、テーゼとアンチテーゼの衝突でジンテーゼが生まれるというプロセスを音楽は必要としていないのではないか。
その、制作者の意図に反しているかも沿っているかもわからない音楽は、またひとつの芸術かもしれないが、それと同時に実際の作品とは別のものを作り上げてしまっているように見える。

多分私は、サイレント映画の当時の上映方法についての知識があまりにも無さ過ぎる。だからきっとどこかで大きな勘違いをしている、と、思う。
そもそも21世紀の観客として、音が無いと見られないってのも事実かもしれない。観客合わせて作品も変えられるべきだろうか?映像が飽和する世界で生きる私たちの目、頭にも耐えられるように。


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サイレント映画と後付けの音楽についての論文はありそうだけど。
探してみよう。

A(森達也、1998)

ドキュメンタリー映画のクラスの期末レポートのレジュメ(って日本の大学だと言うのだっけ?)が配られた。ひとつドキュメンタリー映画を選び、それについてのバックグラウンドといくつかの批評をまとめて、自分の議論も書き加える、まあ内容的にはいたって普通の期末レポート。さて何を見よう?もちろんそれはcontroversial(賛否両論)でなければ批評・評論は見つからないし、でも日本のドキュメンタリーを見たいなあと色々調べて、とりあえず図書館にあった森達也のオウムを題材にした、特に当時の広報部副部長であった荒木浩氏に焦点を当てた『A』を見た。オウムの内部から見る日本の社会、外(マスコミ、マスコミが報じるオウム、メディア自体)と中(信者たち)の温度差、そして記録映像の倫理性。撮影はハンドカメラでとにかく撮れるだけとってそして編集した、という感じで、「映像の力」を信用して作っているわけではなかっただろうが、それが逆に荒木氏(当時28歳)の素朴さ・一般的な「オウム信者」というイメージから乖離することに役立っていたような気がする。少なくともこれは『意志の勝利』や『カメラを持った男』のような映画による力を借りて観客に疑問を投げかけたり観客に影響を与えたりするものではない。ドキュメンタリーと言う手法がこの『A』のプロパガンダ性に繋がっているような気がする。

そう、これは意図的かどうかは別として、一種のプロパガンダ映画だ。
例え森自身が中立的な立場でいて、オウムの信念に対して疑問を抱き、荒木氏とのインタビューを通じて彼に「社会復帰」をすべきではないかと言う誘導質問をしたとしても、一般的なオウムのイメージを覆されてしまいそうになる。それくらい『A』の中での荒木氏は好青年で、穏やかで、素朴で、そして他の信者たちも血の通った、ふつうの人間だった。恐らくこれはサリン事件等の犯罪をメディアを通してオウム真理教を見てきた日本人が一番知りたくなかった事実だ。恐らく当時の日本人は、オウム信者は人間ではない、と思いたかったはずだ。そうでなければあれほど凶悪な事件を起こすはずが無い、あんなことする人間はいるはずはない、と。悪魔には悪魔で居て欲しいと言う願望は責任転嫁でもあるし無為無策でもある。
考えたくないことを気付かさせられる。自分たちが思ってきた事実と別の、正反対のものが、しかもドキュメンタリーと言う、現実の再構築または現実に限りなく近い映画手法によって暴かれる。これは明らかにオウム側のプロパガンダとして捉えることが出来るが、しかし森達也の中立性が法的に立証される場面が、偶然とは言え起こってしまった。最早この作品の中立性については議論する余地はなく、ただただ私たちは彼のビデオテープの政治的使用について、オウム真理教と言うカルト宗教、数々の凶悪犯罪を起こしたグループの信者の釈放に結果として加担した森の倫理観に対して攻めることしか出来ない。それはこの映画の倫理観とは全く別の議論である。
この一連の流れは、ドキュメンタリー映像がどこまでインデキシカリティーとしての作用を持ったと言えるのかを考えることが出来ると思った。

まだ見たばっかりだからメモ程度に書いてみたけど、でも本当に凄い映画だった。ただ、オウム真理教の背景を知っている日本人だからまだバイアス(と言っている時点で私はマスメディアの報道に身を委ねている人間のひとりなのだが)にはかからず鑑賞することができるが、果たしてそのコンテクストを知らない人間が見たらどうなるか。間違いなく荒木氏にシンパシーを抱くだろう。彼だけじゃなく、他の信者たちに対しても。確かに彼らの言っていることはどこまでもナンセンスで(「尊師は脳波が止まってるんですよ」って、何言ってるんだ?)、食生活や信念もまるで子供が考えたもののようだが、あくまでひとつの新興宗教として受け取ることが出来る。彼らの理念も、ひとつの理念だと、受け取ることが出来る。どうして同じ人間で、少しだけ極端な理念を持った人間がここまでマスコミや一般人に攻撃されているのか?まるで人権がないかのように扱われているのか?同じように食べて、考えて、生きているだけなのに!と。

特に私は、その偶発的に起きた公安の誘導的、人為的な不当逮捕の直後のシーンがかなりショッキングだった。信者がひとりパトカーで連れ去られたあと、一般人の女性と荒木氏、そしてもうひとりの信者との会話で、「そんなに頭が良いなら社会の役に立つことをしたら良いじゃない」と言う言葉に対し、「役に立つって何をすれば良いんですか」という信者の答え。世間とのギャップを埋めるためには何か理念が必要だ。それがただオウムだっただけなんだ、と、気付いてしまった。私も、気付きたくなかった。

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『意志の勝利』(レニ・リーフェンシュタール、1933)と、メモ

映画って、制作者も観客も、結局はモラルと美学の葛藤なのかもしれん、と、なんとなく。
例えば『意志の勝利』でのレニ・リーフェンシュタールはモラルよりも美学を優先した。そしてその観客である私は、彼女の美学を感じつつ、しかし「良い映画」とは言えない/言いたくないのは、やはり自身のモラルがあるからだ。良い映画、美しい映画だなんて認めてしまったら、ヒトラーやナチズムを認めてしまうような気がして。

『意志の勝利』はそのくらい力のある映画だった。あらゆるものが対称し合って、最終的にはナチズム、ヒトラーによる統一感を与えてくる。映画効果の蓄積は、凄い。

この映画が出来てもう70年経っている。映画の対象物、ヒトラーやナチズム、SS、SA、ヒトラー・ユーゲントの少年たち、ニュルンベルクの町並みがその後どういう道を辿ったのか、私は知っているが彼らは知らない。実際にヒトラーが行った政策がどういうものだったのか、今の私たちは知っている。だから「美しい映画」とは言いたくないのだ。
でも実際、1933年にドイツにいて(いや、ドイツにいなくても)、そしてあの映画をみていたらと考えると、間違いなく手放しで褒め称えていただろう。映画の出来と、そしてフューラー。

モラルを、と言う前にまず「モラル」から定義しなければならないかもしれないけど、とりあえずそのことは忘れて言うと、『意志の勝利』は美しい映画だった。
雲の隙間から見下ろすオープニングショットに始まり、地上に着いてからの群衆の喝采ヒトラーの唯一無二の存在がショット・リバースショットを通して対話しているようだ。そのように、群衆とヒトラーと言う対比がこの映画の中軸だった。それが蓄積されていって、最終的にルイトポルトアレーナ広場昼間集会でひとつになる。それは素晴らしいほどの統一感を生み出していて、私ははっきり言ってほとんど泣きそうだった。静かで美しいロングショット!

だけど、だ。
歴史は(一部だが)知っている。ヒトラーがなにをした人物なのかも、ナチスドイツがなにをしたかも、そしてどうなったかも、知っている。だから言えない。でも言いたい。だって本当に「映画的に」見たら、素晴らしい。

それだ。映画的に映画を見るのと、人間的/個人的に映画を見るときに生まれる葛藤がとても苦しい。『意志の勝利』が好きな映画のひとつだなんて言えないのは「モラルに反する」からだ。どうやら私は美学とモラルを切り離す勇気がまだないみたい。
でも映画と言うひとつの芸術体形をやっている以上、自分の美学に反することは、モラルに反すること以上にしたくない、とも強く思う。
せめてここでは自分の美学を大事にしよう。

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『サンライズ』(F・W・ムルナウ、1927年)

今授業で見て来たばかり。ムルナウの作品は初めて見たけれど、こんなに美しい素晴らしいサイレント映画があったのか、と今かなり興奮しているし、凄く幸せだ。まるで絵本のような始まりで、そうかと思えばいきなり画面がオーバーラップして空間がいっきに飛ぶ。カメラワークも凄いけれど、画面の作り方が本当に綺麗!汽車と客船のショットのあと、初めて村に付いた船の中から見たショット。フレームインフレームがゲートのように見えて、村へというよりこの映画世界へようこそ、楽しんでいってねと言われているような気がした。前面に何かを置いたりと、空間の深さも強く感じる。
前半の妻を殺そうとするまでの緊迫感が嘘みたいに、路面電車にゆられて町に行く間にすっかり消えてしまう(この路面電車の中からのシークエンスもとても綺麗)。都会へ着いてからはもうほとんどハリウッド・コメディ。主人公夫婦たちだけではなく床屋や写真屋の主人など、かなりのオーバーアクション。
冒頭とラスト付近の、湖のシーンが本当に美しいんだよなあ。都会のシーンはあくまで動(でもカメラは静)で、田舎のシーンは静(カメラは動く動く)。田舎の部分をどれだけ気合いを入れて撮っていたのかがよくわかる。

字幕もあまり多くなくて、とにかく映像重視の映画なので自分もとても気に入ってしまったんだと思う。ドイツ表現主義作家がハリウッドに招かれて撮った作品。ハリウッドの資本と言うのはやはり一種の成功要因だな、と感じた。

サンライズ クリティカル・エディション [DVD]

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いやー、本当に本当に綺麗だった!

ドキュメンタリー映画の授業で見た作品

『極北のナヌーク』(ロバート・フラハティ、1922)
まだまだサイレント時代だったのでインタータイトルに頼らざるを得ないが、そのせいで物語性も増して、詩的表現になっている。イヌイットの生活を映し出しつつ、観客が求めているイヌイット像を作り上げているような作風で、かなりフラハティのロマンチシズムが反映されているなと思う。
レコードをかじるシーンは、ナヌーク自身が出したアイデアだそうだ。原始的生活を保っているように見えて、それはあくまでカメラの存在ありきで、やはり「リアリティ」とは言えない。

ナヌーク夫人はカメラをまっすぐに見据える(カメラを意識する)シーンが多いが、ナヌーク本人がカメラを見て観客と目が合うシーンはワンシーン、セイウチを食べているシーンだけだ。
カメラを意識すると言うことが何よりもリアリティに近く、カメラを意識しなければしないほどファンタジーに近くなる。カメラとカメラが捉える人間の関係性が作り上げる世界を考えるきっかけになった。

それでもフラハティの撮る極北は、ロマンチックで荒々しく、何より美しい。

極北の怪異 (極北のナヌーク) [DVD]

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『ライズ』(デイビッド・ラシャペル、2005)
マルチクリエーター、ラシャペルのドキュメンタリー作品だが、彼の美学・彼の世界が色濃く出ている。なんのかんの言う前に、個人的にはどうも好きになれず。映像(クランピング(Krumping)、クラウニング(Clowing)と呼ばれる力強いダンス)と音楽のアンサンブルは見ていて楽しいものだったが、2時間ずっとプロモーションビデオを見ている気分になってしまった。と言うか、そう言う映画なんだろう。
果たしてラシャペルが撮りたいものはLAで生き抜く黒人たちの姿なのか、ある程度の内容を持ったプロモーションビデオなのか。映画評論家キャサリン・クーエンはかなり激しく批評している。ラシャペルが映画で行った事柄はすべて「黒人文化」というステレオタイプに依存し盗用したもので、歴史的コンテクストを完全に無視している、と。

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以上2つ、ドキュメンタリー映画がもたらす問題とは、現実を「表現」する時に起こる問題とは、そして現実と表現の違いで生じる道徳性とは?という授業の題材。

『カメラを持った男』(ジガ・ヴェルトフ、1929)
アヴァンギャルドドキュメンタリー映画の金字塔だ。ちなみにマイケル・ナイマンが音楽をつけたバージョンではなく、アロイ・オーケストラのバージョン。ナイマンのもちらっと見たけれど、アロイ・オーケストラのほうが断然良い気がする。
1929年時点で考えられる全ての映像効果を取り入れてあって、とにかくヴェルトフの「映画がもたらす力」に対しての全面的な信頼を伺える。映画がもたらす力、カメラが暴く現実。
カメラはカメラを持った男を追いかけつつ、そして人間と機械の一体感を写し続ける。人間と機械が共存共栄している社会。テクノロジーが偏在する社会。

Self-reflexivityって日本語だと何になるんだろう。「自己再帰性」らしいけれど全然ピンと来ない。映画内でカメラが映ったり、そういった「映画」と言う世界にあるべきではない物(カメラとか制作者側の人間とか)が映って「映画世界」が崩壊する(崩壊って程ではなく、「あ、映画見てたんだ」と認識してしまうこと)ことを言うのだけど…。例えば第四の壁を越えることもself-reflexiveの瞬間だったりする。第四の壁を越えて映画世界は観客と繋がって、その瞬間に観客は「映画の鑑賞者」から個人に戻る。
この『カメラを持った男』は始めから終わりまでself-reflexiveの瞬間でいっぱいで、それが一体どういうことなのか、全く煮え切らないので、どなたか良い説明が乗っている本をご紹介ください。映画を見ていると認識させることが何に繋がるのか。

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コヤニスカッツィ』(ゴッドフリー・レッジョ、1982)
音楽と映画編集が与える相乗効果の真骨頂だよなあ。超高速モーションとフィリップ・グラスのリフレインが延々に続くようなミニマル音楽が合わさって、被写体が何なのかわからなくなってしまう。催眠効果。
対比と言うか並べているものが極端なせいもあるかもしれない。20分ほど散々人のいない壮大な自然を写したあと、いきなり工業的な物が入ってくる。そして一気にテクノロジーによってシステム化された社会への変換。気が遠くなるほどのスローモーションの次に、何が動いているのかもわからないほどのファストモーション。S極とN極へ行ったり来たりテレポートしている感覚になる。人間の集団を写したあと、既製品のような個人のスナップショット(それも静止画ではなく、スローモーションなので見ていて不快感がある)。夜のネオンを写したあとの、廃墟。大都市の次の瞬間は、電子回路。あっちへこっちへ引っ張られて、音楽でいきなり転換させられて、暴力的と言っていいほどの編集だった。

大画面で見ないとあまり意味が無い映画だなあ。
私はとても好きになって映画をみたあとフィリップ・グラスのCDを5枚ほど図書館から一気に借りたくらいなのだが、クラスの中では明らかに不快感を表した生徒もいた。

以上2作品、モダンとポストモダンの描写について、などの題材。
ビル・ニコルズがドキュメンタリー映画をモード別に分けたので、その理論を使いつつ。

雑記:10月4日

うおお、やっぱり時間ない!
先々週はロバート・フラハティの『極北のナヌーク』とデイビッド・ラシャペルの『ライズ』についてのペーパー(全然つまらない内容のペーパーが仕上がったけど成績は良かった)、今週はジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』とゴッドフリー・レッジョの『コヤニスカッツィ』についてのペーパー!

来月の頭に映画史のペーパーも書かなきゃ。1919年〜1930年までのドイツ表現主義にしようか1920年〜1930年のソビエトモンタージュにしようか、はたまた1918年〜1945年のハリウッドの撮影スタジオシステムにしようか悩み中。他にも1930年代〜1950年代までの日本の映画スタジオシステム、1890年〜1915年の編集技法の発展、1930年代のフランス映画、1942年〜1950年のネオリアリズモ、1944年〜1955年のフィルムノワール、それか授業で見た映画のプロダクション背景についてのリサーチ、また指定映画の映像分析。
文献揃い次第書き始めたいなあ。やっぱりソビエトモンタージュかな。
1500単語ほどだから7枚程度だけれど、もう始めないと。

10月の第4週、火曜日に映画史のテストで水曜日に形質人類学・文化人類学・考古人類学のテスト(一気にだなんて酷い!)。その前に来週形質人類学のラボのテストだ。骨の名前を今必死に覚えています…
再来週は文化人類学の課題も提出。成績の10%にもならないのに10枚ほど書けと。課題内容は、公共の場での人間観察。

止まってる暇なんて無いのだ!
コヤニスカッツィについて記事を書きたい!凄く楽しかったです。

映画学:ドキュメンタリー映画 <ドキュメンタリーの始まり>

覚え書き。
ちなみに教科書はビル・ニコルズの『ドキュメンタリー入門 (2010)』を使っています。

1826年にニセフォール・ニエプスが写真を発明、1839年にはルイ・ダゲールによるダゲレオタイプ1840年には複製可能な写真、1867年にゾーエトロープ、1888年にはコダック・カメラとフイルムの発売。その中でもエドワード・マイブリッジは運動をコマに分けることに興味を示し作品をいくつか残す。1882年にエティエンヌ=ジュール・マレーがカメラ銃で「物事がどのように動くか」の研究のため撮影。
実際の生活、現実性(actuality)を捉えることに重心が置かれ、フィクションの存在はこの時点ではそれほど重要ではない。

トーマス・エジソンが1891年にキネトスコープを発明、フィルムスタジオも設立。
エジソンの作品はどちらかと言えばアーカイブ的、記録的なものが多い。「カメラを意識」というよりも「カメラによって撮られていることを意識」し、第四の壁も薄いながらも発生している。

一方、リュミエール兄弟も映画を作り始める。
リュミエール兄弟の作品はエジソンのものとは違い、スタジオ外で撮られたもの、被写体はパフォーマーではない一般人が多い。被写体も「カメラ」を意識していることが明らかにわかる。撮られていることよりもカメラそのものに対しての意識をしつつ、彼らは彼らが行う動作そのものに集中している。

ロバート・フラハティについて。
世界初の長編ドキュメンタリー映画を作る。彼自身は映画制作者と言うよりも探検家。
1922年の『極北のナヌーク』は世界的に大ヒットした。ナヌークたちの話をエピソード毎に、インタータイトル等を利用し伝える。フラハティ自身は『視覚的詩人』とも呼ばれ、そのロマンチスト性によりナヌークを理想化していると批判されることもある。

ドキュメンタリーをどう定義すべきか?
ドキュメンタリー作家ジョン・グリアソンは「現実性の創造的な処理("the creative treatment of actuality")」と1930年代に定義した。その言葉は、現実と創造の差・関係を明確にし、さらに「創造的な処理」の裏には媒介者(映画製作者)がいることを示している。

映画評論家ビル・ニコルズは自身の著作『ドキュメンタリー映画入門』"Introduction to Documentary" (2010)で、ドキュメンタリー映画をいくつか定義付けた。
(1)ドキュメンタリーはリアリティ(実際に起きた出来事)に基づく
 ・ドキュメンタリー映画内には実際に出来事を経験した人間が出てくる
(2)ドキュメンタリーは実際の人々に基づく
 ・映画内で人々は演じたり、自身の存在を主張しない